Alfons Mucha
アルフォンス・ミュシャについて
時代背景
19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパでは、科学、技術及び文化がこれまでの上流階級だけではなく、一般市民の生活にも浸透するようになってきた。この時代は、フランス語で「よき時代」を意味する「Belle Époque」 (ベル・エポック) といわれ、そのなかで新たな美術運動が沸き起こってきた。それは動植物など自然をモチーフにした背景に、煌びやかな装飾品を身にまとった女性像を描き、繊細な色彩と流れるような曲線で融合させるもので、フランス語で「新しい芸術」を意味する「Art Nouveau」(アール・ヌーヴォー)と呼ばれるものだった。その運動は、絵画、宝飾品、グラフィック・アート、インテリアデザイン、家具、衣服、磁器/陶器、ガラス製品などの多岐の分野に浸透し、なかでも特に大きな影響力を持っていたとされるのがチェコ出身の画家、Alfons Mucha (アルフォンス・ミュシャ) だった。
ジャポニズムの影響
アール・ヌーヴォーが最も大きな影響を受けたと言われているのがジャポニズムである。19世紀後半からフランスではジャポニズムの大流行があり、陰影がなく輪郭線を用いた平面的な表現が特徴的な浮世絵などの日本画が、同様の表現手法を用いるアール・ヌーヴォーのみならずゴッホ、ゴーギャン、セザンヌなどのポスト印象派にも大きな影響を及ぼしたと言われている。この時期にヨーロッパを訪れていた黒田清輝など日本の画家たちが持ち帰ったポスターや書籍を通じて、アール・ヌーヴォーやミュシャの紹介がほぼリアルタイムで行われていた。与謝野鉄幹、晶子らが刊行した文芸雑誌「明星」では創刊時からミュシャ作品をそのまま挿絵に掲載していた。こうのようにしていわば逆輸入されたミュシャ・スタイルは親和性が高く、日本人の美意識の受け入れやすい芸術だったと言える。
大衆芸術
ミュシャは自らの信念を次のように言い表し座右の銘とした「私は芸術の為の芸術を作るよりも、大衆の為の絵の制作者になりたい」。この信念の表れでミュシャの功績の一つと言えるのが、それまでただの広告の媒体で消耗品でしかなかったポスターに芸術作品としての新たな価値を付与したことが挙げられる。
ミュシャはこのような大きなポスターだけではなく、絵本などの挿絵も数多く残しているが、それもこの信念の表れともいえる。
「ミュシャ」から「ムハ」へ
Muchaは有名になったフランスでは「ミュシャ」と発音する。そのため、これまでは「ミュシャ」の名で親しまれてきたが、2017年日本で最多入場者を誇った国立新美術館におけるアルフォンス・ミュシャ展では、アール・ヌーボーの巨匠の名を欲しいままにしたパリ時代ではなく、これまで注目を浴びてこなかったチェコ時代、即ちスラブ民族の歴史の啓蒙に余生を捧げた時代にスポットが当てられたため「Mucha」の本来正しいチェコ語の発音である「ムハ」が広まりつつある。
アルフォンス・ミュシャの年譜
1860年ミュシャはチェコスロバキア(現在のチェコ共和国)の南モラヴィア地方にあるイワンチツェに生まれる。17歳の時にプラハの美術アカデミーへの入学を目指すが不合格。その後ウィーンの舞台背景を制作する会社の工房で働くが1881年に劇場火災が起きたため、他の一部のスタッフと共に解雇される。
1883年に初のパトロンとなるクーエン伯爵の支援を受けミュンヘンで美術を学びパリに移りアカデミー・ジュリアンやアカデミー・コラロッシーに入学するも1889年末にクーエン伯爵の支援が打ち切られる。この頃から生計を立てるためにミュシャが描いた挿絵がフランスの雑誌などに登場し始める。
1891年ポール・ゴーギャンと知り合う。
1894年の年末には時の大女優サラ・ベルナール主演の舞台「ジスモンダ」のポスターを手掛けたことで一躍有名になり、商業ポスター、装飾パネル、本や雑誌の挿絵、葉書、切手、商品のパッケージデザインなど幅広い分野で活躍。
1900年にサラ・ベルナールとの契約が終了した後はパリ万博のボスニアヘルツェゴビナ館の装飾や装身具商ジョルジュ・フーケの店舗デザインなどを手掛ける。
1902年に友人のオーギュスト・ロダンとチェコを訪れスラブの民俗芸能に驚嘆し、この年に美術学校の生徒や工芸家のための教本となる「装飾資料集」を刊行。
1904年にはアメリカに渡ったミュシャはスラブ民族の歴史を振り返る作品の製作に専念できるように資金集めを開始。
1908年にボストン交響楽団演奏のスメタナ作曲の「我が祖国」を聴き、スラブ民族や文化の啓蒙を自らが手掛ける芸術作品(スラブ叙事詩)によって行おうとの気持ちを強める。
1909年にシカゴの実業家で富豪のチャールズ・R・クレインがミュシャのスラブ叙事詩の計画に賛同し資金援助を約束。翌年チェコ西部にあるズビロフ城の一部をアトリエとし、制作を開始する。
1918年にチェコがオーストリア・ハンガリー帝国から独立をした際には、祖国のための仕事の一環として国章、切手、紙幣、有価証券、保険証などをデザイン。
1919年にはプラハで初めてスラブ叙事詩11点を展示し、翌年アメリカに渡り1921年にニューヨークとシカゴで5点を展示。
1928年には全20点が完成し、チャールズ・R・クレインはこれらをチェコ国民のためにとプラハ市に寄付。同年プラハの北西の丘の上に位置する聖ヴィタ大聖堂の大司教礼拝堂のステンドグラスをデザイン及び制作。
1939年にプラハに侵攻したナチス・ドイツ軍により激しい尋問を受けたのちに開放されるが、間もなく肺炎の後遺症で死去。プラハ市は国葬を用意し、スメタナ、ドボルザークなどのチェコの偉人たちが眠るプラハ北部のヴィシェフラット墓地の奥の一段と高い場所に位置するスラヴィーン霊廟に眠っている。