Alfons Mucha
OGATA Collection

The Ogata
Collection
OGATAコレクション

ミュシャの作品を集めはじめたきっかけ

学生時代にはヨーロッパ、特にフランスとドイツに数年間留学し、中東やアジアを陸路で横断し、1978年に日本に帰国。同年、自分の地元である福岡に本社があった「カメラのドイ」に入社後はカメラの勉強と研修の日々を過ごし、三年の月日が流れた。そして同社がその6年前に買収していたが、経営不振に苦しんでいたドイツの老舗カメラメーカー「プラウベル」を立て直すために、ドイツ語が堪能であった自分が1981年に駐在員としてドイツに赴任。プラウベルの再建の傍ら土居君雄社長の強い意向のもと、日本では当時まだあまり知られていなかったミュシャの作品とBMWのクラッシック・カーの収集を開始。ミュシャ作品の収集に携わっている中でアルフォンス・ミュシャのご子息であるジリ・ミュシャに出会い、世界各地のオークションで作品を購入し、日本への出張の際に手持ちで持ち帰ることもしばしばあった。80年代後半から90年代にかけては日本各地の主要都市の美術館やデパートなどで展覧会を開催し、これよりミュシャの日本における知名度が飛躍的に向上。これらの作品やBMWのクラッシック・カーは現在、堺市の所蔵となっている。
当時土居社長の依頼を受けミュシャ作品の収集に奔走していた私に、
ジリさんは以下のように助言「尾形、お前はドイの社長のように財力があるわけではないから大きな作品は買えないが、自分でも作品が欲しいと思うなら、今はまだ比較的手に入りやすいポストカードを集めると良い。」
この助言を受け、当時からミュシャのポストカードと小さな作品の収集を開始。
Jiri Mucha Kimio Doi and me

現在のOGATAコレクションに至るまで

80年代後半にプラウベルはドイから独立し、別の分野にも事業を拡大。2010年頃から自らの老後を考え日本での隠居生活に向けた準備を開始。その後、事業を後継者に譲渡し日本での生活を始めたが、平凡な隠居生活に満足できず刺激を求めて新たな仕事を模索し始めた。そのころ、故土居社長の「ミュシャの魅力を日本全国に広めたい」との遺志を思い出し、ヨーロッパ、アメリカ、日本で長年培ってきた人脈を通じその遺志の実現することを決意。2013年からプラハや日本各地で小規模の展覧会の開催を重ねて経験を積んだ後に2015年の長崎県立美術館での展覧会から大規模な展覧会の開催に本格的に着手。
そこで作品の充実の必要性を感じ、ヨーロッパ各地やアメリカのオークションへの参加や、コレクターからの直接購入を通じて大きな作品の購入も開始。
保有作品点数は現在1,300点を超え、その保護と展示の両立に努めながら全国各地での巡回展を開催。

OGATAコレクションのご紹介

1. 商業ポスター

19世紀にヨーロッパで生まれ、20世紀にかけてフランスで急速に発達した石版画、いわゆるリトグラフにより、ポスターの大量印刷が可能となる。
当時、雑誌や本の挿絵で生計を立てていたミュシャは、演劇ポスター「ジスモンダ 」の制作により一躍有名となる。
これによりチョコレートやビスケットなどのお菓子をはじめ、日用品、香水、酒、煙草などの嗜好品から自転車や鉄道など幅広いジャンルの広告ポスターの制作依頼が舞い込むようになり、彼が制作したポスターは、それぞれの商品にあった雰囲気の女性のイメージを巧みに使い分けることにより見る者の購買意欲を掻き立てていた。

ミュシャ商業ポスター
ミュシャ商業ポスター

2.装飾パネル

商業ポスターの画家としての人気が高まったミュシャの作品を手元において楽しみたいという人が急増したことを受け、当時ポスター制作の大手であったシャンプノアー社は装飾パネルの発売を開始。
これまで発注者の意向に沿わざるを得なかった状況から解き放たれ、自由な創作活動ができるようになったミュシャは夢想や黄道十二宮など、広告に使用していたモチーフから文字を消したものから四季、芸術、星、花などの4連作や、羽根と桜草、ブロンドとブリュネット、蔦と月桂樹、などの対の作品の制作を通じ、自然をモチーフにした装飾や女性の髪とシルエットを艶やかに描くのが特長であるミュシャ・スタイルを確立して行った。

ミュシャ装飾パネル

3. 装飾/人物資料集

1889年に自分が学生として通っていたパリの美術学校アカデミー・コラロッシに、講師として迎えられたミュシャは学生のための教本として1902年に「装飾資料集」を刊行。
「装飾資料集」は、動植物、人物、活字、家具、宝飾品、カトラリーなどのモチーフが大小さまざまなサイズと、白黒、茶色系統、青系統、フルカラーなどの様々な色彩系統で描かれた合計72枚からなり、それはまさにアール・ヌーヴォーの「装飾デザインの総合辞典」ともいえるべき作品です。この「装飾資料集」の人気を受けその3年後の1905年に刊行された「人物資料集」には商業ポスターや装飾パネルで描かれていた人物を連想させるようなものや、人物を描く際の構図の参考となるように即ち、彼自身曰く「誰もが自分の望むものを完成した形で見つけ出せるように」と様々な人物が円だけではなく、半円、星形、三角形、放射線系などの幾何学模様の中に配置した合計40枚で構成されています。

ミュシャ装飾/人物資料集

4. 季刊行誌、挿絵

ミュシャがアカデミー・コラロッシ在学中に資金援助を受けていた資産家からの援助が突如打ち切られ、生活費と学費を稼ぐために季刊行誌や書籍の挿し絵の依頼を受け始めたが、その才能はすぐに開花。その間に手掛けた作品は壮大な歴史小説から子供向けの物語などの広いジャンルに渡る。その人気の秘密は物語全体の流れを的確にとらえ、ドラマチックでありながら、繊細で細部にまで至る優れたデッサン力で見事に表現したいたところである。
ジスモンダのポスターの発売により、挿絵画家としての下積み時代は終わり、ミュシャには、Le MoisやLa Plumeなど十数年に渡り刊行され続けた多くの大手季刊行誌から表紙のデザインも依頼されるようになった。それでもなお挿絵の製作は相変わらず続け、自らが企画して発行した「主の祈り」では挿絵のみならず、ページのデザイン、本全体の装丁そして彼自身の思想までもが収められており、この作品にはミュシャの世界観が凝縮されている。

ミュシャ季刊行誌、挿絵

5. カレンダー、メニュー

商業ポスターから装飾パネルへの流れでサイズが小さくなったことにより、ミュシャの作品は人々の日々の暮らしに現れるようになった。
この流れはさらに加速し、商業ポスターの依頼主であった企業がお客様に配っていたカレンダーなどにも、販売促進のためにミュシャの絵が起用されるようになった。
交通手段の進歩によりパリを訪れる人も増えたことで街に活気が溢れ、モエ・シャンドンなどの酒造メーカーが、商品を納めていたレストランに集客と宣伝のためにミュシャの絵が施された看板やメニューを配るようになった。

ミュシャカレンダー、メニュー

6. ポストカード

ミュシャのポストカードはフランスとアメリカで発行されたおよそ120種類とチェコで発行された60種類の合計約180種類あると言われている。フランスで制作されたものの殆どはポスター制作で有名なシャンプノアー社が印刷ではなくリトグラフとして制作したもの。
最初のポストカードは、1894年にホーム・デコール社が製作を依頼したもので、最後のポストカードはミュシャが亡くなった1939年7月14日の日付とサイン入りのもの。
裏側は宛名を書く欄や切手を貼る場所などの指定があったため、メッセージを書く場所は表側にせざるを得なかった。そのため図柄の多くは表側の全面にではなく、メッセージを書くスペースを確保するために余白を多く残したものがある。その図柄の多くは商業用ポスター、装飾パネル、壁画、メニューなどで使っていたものをアレンジしたものがほとんどで、ポストカード用に起こしたものは数点のみ。

ミュシャポストカード
ミュシャポストカード

7. 紙幣、切手、証券

第1次世界大戦後の1918年10月28日にオーストリア・ハンガリー帝国の支配から独立をしたチェコスロバキア共和国が誕生。独立に伴い、
新政府は自国の紙幣、切手、証券などを作る必要性に迫られた。
そこで白羽の矢が立ったのがパリ、アメリカ時代を経て、祖国への強い想いを抱いて1910年に帰国後、プラハの市民ホールの壁画やスラブ叙事詩の製作を通じスラブ民族の団結と文化の促進に邁進していたミュシャだった。ミュシャはその期待に応えるべく全ての依頼を無償で引き受けた。

ミュシャ紙幣、切手、証券

8. 工業デザイン

商業ポスターの製作者として有名になったミュシャのもとには、ポスター以外にビスケット、チョコレート、紅茶やお酒の缶、香水の瓶、煙草の巻紙などの商品のパッケージデザインの依頼が舞い込むようになった。その他にはプロンズ、絵皿、調度品、なども数多く手がけていた。

ミュシャ工業デザイン